昭和52年01月12日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」

 とかく信心は地を肥やせ、勿論心を肥やせという事でしょうね。確かに心が肥えておる、心が豊かになってくると、確かに豊かな物の世界にも豊かなお金の世界にも、所謂豊かな世界に住む事がでける。どうでもその豊かな心を頂く信心修行をさせて頂きたい。昨日直方の山本さんのお友達で、この寒修行が始まってから毎日お参りされる若い女子青年の方があります。まだ数える程しかお参りしたことはないのですけれども、昨日ここにえらい感動してお届けされるんです。
 と言うのは、一生懸命御祈念をさせて頂いとりましたら、あれは何とかいう歌、私忘れました何とかという歌謡曲のリズムが聞こえてきてね、その文句が耳に響いて来た。そこの所が何処かというと、親を大切にと言う所だそうです。何とかと言う歌でしたねえあれはねえ。(瀬戸の花嫁)ああ「瀬戸の花嫁」という歌があるんだそうですね。その中にその親を大切にという。所がこの方は親との間にささやかな問題でしょうけど問題があった訳です。けれどもそれを頂いた途端に感動してですね。
 例え言うならば、親は親たらずとも子は子たれという様な意味の事が、もう心から分かられたと、こう言う訳なんです。神様に一生懸命にこうして寒修行でも、しかも直方あたりからまでも一心に参って来るんですから、神様がそういうおかげを下さってある。もうそれこそもう解かそうにも解けそうにもない様な問題でもです。神様の一声というものは不思議なもんですよね、もうそれが本当に解けてしまう。そして相済まんとか、有り難いという心に変わってくる。
 だからやはり根は心でしょうけれども、根を肥やせというのは心を肥やせと言うことでしょうけれども、やはり私共の根はなんと言うても親です。いわばお先祖です、だからそれこそお先祖を大事にするね。御仏壇の掃除をしたり、生き生きとしたお花をお供えしたりという様な事が出来るという事は、これはもうとりも直さず形の上の事じゃないけれども、そうさせて頂く心がもう豊かな心だと。
 やはり根が肥えてこない筈が有りませんよ。特になら現にまだこの世におられる親というものは、愈々本当に大事にせなければならないという事。だからもう信心の根本は、この根を大事にする事です、先祖を大事にする親を大事にする、その心が厚うなって来ると言う事が信心が厚うなって来るという事になるのじゃないでしょうかね。同時に又自分の心を愈々あらゆる手立てを以てしてでも心を愈々大事にして行く。所謂大地の信心なんかというのは、もう愈々地を肥やして行くことでしょうね。
 昨日私いろんな、個人的にもお取次ぎさせて頂く上においてもいろんな問題が、昨日は特別問題があったんですけれども、もう終始言うならば、本当に穏やかな穏やかな心でお取次ぎが出けたり、又お話が出来た。昨日私は新聞を見ていませんでしたから、新聞を晩にちょっと見せて頂きました。西日本新聞にずっと何月生まれの人の運勢の様なものが書いてある所がございます。そしたら私が四月生まれですから四月生まれの所をね。にこやかにしておるという事が一番素晴らしいという意味の事が書いて有りました。
 今日は新聞にこげん書いちゃるけん、ちょいとにこやかにしとこうと言うのではなくて、もうそう言う事では昨日は私は見ていませんでしたから、言うならば私の心の中にはいつもそういうにこやかに、ならどういう事を見ても聞いてもにこやかに相対が出来たり、にこやかにおかげが頂けれる状態というものが、私が豊かなおかげを頂いとるという事になります。どんなに信心が出来とりましてもね、イライラする人がある、じがじがする人があります。そして食って掛かる様な物の言い方をする人が有ります。
 もうその方はね、もう結局信心に依る心の豊かさというものを一っつも育てていないという事になるです。信心はとかく根を肥やせと仰るのに、言わば先祖の又は親をそうですけれども、自分自身の心を肥やすという事の精進というものが出来ていない証拠です。イライラしたりモヤモヤしたり、すぐ食って掛かる様な物の言い方をしたりする。どんなに巧者に信心が分かっておってもね、所謂心の言うならば根が肥えていない証拠だとさとらにゃいけません。
 だからそういう人は信心が分かっておってもです、絶えず言うならば、それこそ独りでにものが出来るという様なおかげを頂きにくい人です。皆さん本当にね、独りでにものが出来る、願もせん頼みもせんのに次から次とおかげが頂けて来る、という様なおかげに触れたいですね。そらもう神様は願えばおかげを下さいます。また修行をすればその修行に対する〈引当〉はちゃんと有りますけれども、独りでにものが出来る様なものじゃというおかげを頂きたいですね。
 折角信心をさせて頂くのですから。どんな場合でもそれをならにこやかで受けて行けれるという事。どんな場合でも豊かな心で受けて行かれるという事、肥えはせいでも言わば、独りでにものが出来る様なものぞとこうある。どういう例えば、向こうがほんならあのカチッとくる様な事を言っても、こちらがそれをそれこそフワッと受け入れる心の状態って本当に素晴らしいです。
 常平生の信心が肝要じゃと、だから毎日お参りしております教えもこんなに詳しく分かりました、というだけではいけない事が分かりますね。本気で根を肥やす、心を肥やす修行が出来なければならない。その修行のね、そういう修行の一番素晴らしいのは何と言うても感謝です、喜びです、同時にお詫びです。私共がね、当たり前の事当然の事、幾ら頂いても頂きたらん様な考え方の中には豊かな心は生まれません。本当にもうそれは自分自身が本当に分からねばいけません。
 自分自身の正体が分からねばいけません。例えば、皆さんのお家をですね、なら雨風を凌がせて頂くというだけの家に住まってもおってもです、自分なこんなどうしてこんなボロ家に住んどかんならんだろうかという様な心には、おかげは伴いません。雨露を凌がせて頂くというのだけでも勿体ない。もう一事に万事がそうです。ましてや、ならこの様な立派なお家に住まわせて頂いて、もう本当にお礼の足りない、それこそお詫びばかりをさせて頂く様な心の状態が、いよいよ心が肥えて来るのです。
 こりゃもう寒かけんで、こりゃ言わば防寒の着物を着とると言う事はもう当たり前、寒かけん着とるから当たり前、だからもう当たり前という事ん中には心が肥えて行く元は出来ません。もう自分の周辺を見てご覧なさい、皆お礼を言わなければおれない事ばっかりなのにお礼も言わずに不平不足を言うておるとすればです、その不平不足を言うておる所に気づかせて貰うて、ああ本当に相済まじゃったというお詫びを心行くまでしてご覧なさい。心が豊かになって来るです。
 私は信心とはそういう繰り返しだと思うです。もう当たり前、こん位の事はもう当然だと、これだけ働いちょるけんこん位なものはおごって食べても、例えばねもう、当然だと言う中には、有り難いもなからなけりゃ相済みませんも生まれて来ないです。自分の心をいよいよ豊かにしていく、又自分の心の豊かさ加減というものを分かる事は、自分がどの位、言うならば丁重なお礼を日々神様に申しておるか、どういう事がある中にでも、そしてそのお礼の足りない事に本当に心からお詫びをしておるかと言う事をです、確かめてみますと本当に相済まん。
 成るほどこれではね、心が肥えない筈だ豊かに成っていかない筈だという事になります。常平生に、私はとかくに信心は根を肥やせと仰っておられる、日頃の信心が大切じゃと仰っておられる、ならその日頃の信心とは、私は感謝とお詫びに捧げる生活だと思います。三代金光様をして、この様なおかげのお礼の足りない、お詫びばかりをしておりますと仰る。このお詫びをいよいよ深くして行く事。
 このお礼をいよいよ深甚なものにして行く事、本当に深いものにして行く事、それを例えば、ならあばら家に住んでおりましても、なら身にボロをまとっておりましてもです、そのボロが無かったら寒い思いをせなければならない、こんな例えば言うなら傾いた様な家に住んでおってもです、雨露を凌がせて頂いておるという事が有り難いと気づかせて頂かなきゃならん。
 余所に立派な家が出来よると羨ましい、人が立派な着物を着てござると自分もやはり羨ましい心が起こる、といった様な事では心を豊かにしていく稽古をしておるとは言えません。いよいよ豊かなおかげを頂く為にも、それこそ独りでにものが出ける様なおかげを頂く為にも、徹底してお礼とお詫びの信心生活をひとつ繰り返して行かなければならんと、いう事でございます。
   どうぞ。